恋人たちの花の香り

昔の話? 未来の話? もしくは全然別の世界の話? あるいは――

そういう可能性があったかもしれない世界の、あり得たかもしれない――

「かもしれない世界」の話。

彼は彼女の為に毎日花を摘んでいた。

それも彼女がふせるベッドを埋め尽くすほど大量の花を。

〈???〉
ありがとう……けほっ、けほっ。

彼女は胸の奥の何かに抗うように、身を屈めて、咳こんだ。

〈???〉
いいんだ。ゆっくり治せばいい。

彼女の背中をさすりながら、彼は言った。翼の隙間を通る指が何か固いものに引っかかる。

それを手に取って見て、彼は苦い顔をした。

〈???〉
きれいね……。

もとは彼女の真っ白な羽だったそれは、いまは色を失い透明で硬質で、日の光を反射して――

キラキラと光っていた。

〈???〉
貸して……。

〈???〉
ああ。

彼女は、抜け殻となった自分の羽に光を透かして、もてあそんでいた。

彼は、彼女がその羽をきれいだと言うのに耐えられない思いを抱いていた。

その羽が彼女の翼から見つかるようになった頃、彼女の胸の奥に何かが巣食った。

次第に力を失っていく彼女の姿を見ていると、やがて彼女もその透明な羽のように、

色を失ってしまうのではないか、と恐れた。

そんなものをきれいだと思うことは、とてもできなかった。

〈???〉
花、いつもありがとう……。この花の香りを胸いっぱいに吸い込むと、すごく楽になる。

〈???〉
毎日、毎日、どこで取ってくるの?

〈???〉
山を越えたところに、きれいな水と空気の澄んだ場所があるんだよ。

〈???〉
そこには、数えきれないほどこの花が咲いているんだ。とてもきれいな場所だよ。

〈???〉
ホント? そんなところがあるの? いつか行ってみたい……。

〈???〉
ああ、身体が治ったら行こう。

〈???〉
約束だよ……。

〈???〉
約束だ……。

と、彼は嘘をついた。

 

彼は、嘘をついていた。

〈???〉
たくさん咲いているか……。

彼は、絶望的な気分でその風景を見た。その場所にはもう花は咲いていなかった。

毎日、ベッドを埋め尽くすほdの、大量の花を摘めば、そうなるのは目に見えていた。

〈???〉
それでも、俺にはあの花が必要なんだ。

彼女の病が少しでも和らぐなら、この山のすべての花を刈り取ってもいいと思った。

花がないのなら、咲かせればいい。と思った。

〈???〉
俺の血で事足りるなら……それでいい。

彼の青白い肌の上を滑り、滴り落ちてゆく。裸の地面に吸い込まれたそれは緑の芽を生み出した。

そう長くない時間で、芽は花のつぼみとなり、つぼみは開いた。

〈???〉
これでいい……。

花は芳しい香気でその場を埋め尽くした。それが彼女の望んでいる香り、

彼女を癒す香り。彼女を永らえさせる香り。

〈???〉
これで、いい……。

限界まで自分の血を与えた彼は、鮮やかに甦った緑のじゅうたんの上に、倒れ込んだ。

最後に彼は、彼女の名をつぶやき、睡魔の誘いに身をゆだねた。

 

〈???〉
……ん?

どれくらいの時間そうしていたのだろうか。

とても長いようにも感じたし、わずかな時間のようにも感じた。

彼女が病に倒れてからの時間全てがそんなふうに感じることもあった。

大きく息を吸い、胸いっぱいに花の香気を味わう。

彼女もこんなふうにすることで、消え入りそうな命を充足させているのだろうか。

〈???〉
待っていてくれ……。いま、帰るから……。

振り絞るように漏らすと、彼は力を込めて地面を押した。

けして花だけはつぶさないよう、注意を払い、よろけそうな体を起こした。

彼は、ていねいに花を摘むと、彼女との朝に間に合わす為、飛び立った。

そして、またその山は……むき出しの山肌をさらした無残な姿に戻っていた。

〈???〉
いま、帰ったよ。

彼はすぐに彼女の枕元に駆け寄った。

いつものように、彼女のまわりに摘んできた花を敷き詰めた。

〈???〉
……? 寝ているのかい?

彼はいつまでも彼女から反応のないことに気づいた。

いつもなら、

〈???〉
……ありがとう。

と言い、そして苦しそうに咳きこむのだ。それがなかった。

〈???〉
……どうしたんだい?

彼は、抱き起こそうと抱え上げた。その瞬間にすべてがわかった。そして、すべてが終わった。

〈???〉
ううううあああ……うああああ……!!

彼女の透き通った翼は、朝の光を浴びて美しく輝いていた。

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